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日本で江戸時代5代目将軍の徳川綱吉が生類憐れみの令を出した頃、イングランドではジェームス2世が王位に就きました。ジェームス2世はカトリック教で即位後も信仰していましたがプロテスタントが多数しめる議会と対立します。そして名誉革命で王位を追われてしまいます。フランスに亡命後もジャコバイトとともに再起を図りましたが復権はかないませんでした。即位期間は3年と短く、歴史上で最後のカトリック信仰する国王であったジェームス2世の半生と金貨についてのコラムです。
INDEX
ジェームズ2世は1633年、チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアとの間に生まれました。
父であるイングランド王、チャールズ1世は議会を無視した専制政治を行い、これに不満をもった議会派と王党派の間に内戦がおこりました。ジェームズ2世が7歳のころです。当初は王党派が有利であったものの、ピューリタン(清教徒)の信仰に燃えるクロムウェルが登場すると、王党派は敗れ、父であるチャールズ1世は捉えられてしまいます。ジェームズ2世も幽閉の憂き目に遭いますが、隙を見て逃亡し、オランダに逃れました。
その後、1649年に父のチャールズ1世は議会派によって処刑されてしまいます。王の処刑後、イングランドには共和政がうちたてられました。
この一連の出来事は「清教徒革命」または「ピューリタン革命」と呼ばれています。
兄であるチャールズ2世は一時期スコットランドとアイルランドの王としては認められましたが、スコットランドがクロムウェルに制圧されると、行き場をなくした兄弟はフランスに亡命することとなります。
フランスに渡った後は厳しい生活が待っていました。軍人として生計を立てる一方、祖国で復位を期する兄弟はヨーロッパ各国の王に援助を乞い、各地を転々とする日々が続きます。ヨーロッパ諸国に兄弟を助ける力はなく、行き詰っていたところ、祖国イングランドでは新たな動きが発生していました。
清教徒革命で権力を握ったクロムウェルが独裁に走ると、その死後、人々の不満が高まり、王を支持する人たちが力を盛り返していたのです。この機をみて、兄のチャールズ2世は1660年に帰国し王位につきました。
しかしながら、人々が求めていたのは、絶対王政の復古ではなく、むしろ議会の復活でした。クロムウェルによる共和制期の軍事独裁が崩壊した今、議会が求めていたのは革命以前の伝統的な地方自治と議会による王権の制御だったのです。
したがって、チャールズ2世がフランスの絶対王政的な専制政治を試み、更にはカトリックの擁護さえ企てると、議会との溝はますます深まっていきました。
兄であるチャールズ2世には嫡出子がいなかったため、王位継承権はジェームズ2世が手にすることとなっていました。
しかし、ここで問題となったのが、ジェームズ2世がカトリックを信仰していたことです。
イングランドでは長らくカトリックとプロテスタント、そしてイギリス国教会を巡る争いが続いており、多くの血が流されてきました。また、フランスなどカトリック国が絶対王政を布いていたことから、カトリックは議会政治の強化を期する人々には、絶対王政と同義と受け取られ、受け入れがたいものだったのです。このような国内事情に配慮して、チャールズ2世は自らのカトリック信仰を公にはしていませんでした。
弟であり王位継承者であるジェームズ2世のカトリック信仰を危惧した兄のチャールズ2世は、ジェームズ2世に子をプロテスタントとして育てるように命じますが、ジェームズ2世は受け入れず、更にあろうことか、カトリックの再婚相手を選びます。
チャールズ2世の王妃が流産し、ジェームズ2世が王位を継ぐ可能性がほぼ確定すると、反カトリックの勢力は様々な陰謀や法案により、ジェームズ2世の王位継承権をはく奪しようと試みました。しかしながら、反カトリックのいずれの試みも実を結ばず、やがてチャールズ2世は死去します。
ウィキペディア(Wikipedia)より画像引用
チャールズ2世の死後、ジェームズ2世は51歳で王位につきました。ジェームズ2世は兄が行ってきた専制政治をやめず、更にはカトリックの復活と絶対主義の再建に努めました。ジェームズ2世はカトリックの信仰のものを高位の職に迎えたり、国教会のものを罷免したりし始めたので、プロテスタント支配層の怒りを買うことなります。
その後も親カトリック政策は続き、これらの政策に業を煮やした議会は、1688年にジェームズ2世に王位継承権を有する王子が生れたのをきっかけに、ジェームズ2世の長女で新教徒(プロテスタント)のメアリとその夫でオランダ総督のウィレム3世にイングランドへの進軍を要請します。
当初抗戦を図ったジェームズ2世でしたが、親カトリック政策などにより求心力を失っていたため、軍隊は王に逆らい、戦う姿勢を見せませんでした。あきらめたジェームズ2世は再びフランスに亡命します。この時55歳でした。
その後、メアリとその夫でオランダ総督のウィレム3世は、議会の提出した「権利の宣言」を承認した上で、メアリ2世とウィリアム3世として王位につきました。このことを「名誉革命」と呼びます。議会は同年、この宣言を「権利の章典」として制定しました。これは国民の生命・財産の保護などを定めたもので、これにより議会主権に基づく立憲王政が確立したとされます。
名誉革命は立憲体制と議会政治の基礎を作ったともいえる、その後の世界史に重要な影響を与える革命となりました。
ジェームズ2世が王位についていた、1685年から1688年までの間発行されていた2ギニー金貨と5ギニー金貨(発行枚数不明)デザインは表面は月桂冠をつけたジェームズ2世。
裏面は4つの王冠をつけたイギリス、スコットランド、フランス、アイルランド国紋章が描かれた楯と交差する笏、金貨の表面はIACOBVS・Ⅱ・DEI・GRATIAの文字が。こちらはラテン語で神の恵みを受けたジェームズ2世国王という意味のようです。
左側を向いたジェームズ2世の下には象ありと象なしの金貨があります。
銀貨はクラウン銀貨、ペンス銀貨などがあります。
フランスに逃れたジェームズ2世は、イングランド王に返り咲くことを諦めませんでした。フランス軍の助けを得て、アイルランドに上陸しますが、その後の戦いに敗れ、またしてもフランスに逃げ帰ってしまいます。この時に敗れた味方を置き去りにして、自分だけ逃げたことから、兵士たちの不満が噴出し、「くそったれのジェームズ」という不名誉なあだ名が後世に残ることとなりました。
アイルランドはその後イングランドに平定されます。ジェームズ2世はその後もフランスの助けを借りて戦争を起こしたり、ウィリアム3世の暗殺を図ったりしましたが、いずれも失敗に終わり、失意のうちにフランスで禁欲的な生活を送っていたとされます。そして、1701年に脳出血により最期を迎えます。67歳でした。
「名誉革命」はイギリスが世界史に誇る、近代議会政治の基礎となった出来事です。その名誉革命において、排除されたジェームズ2世は長らく時代錯誤の専制君主として描かれてきました。
しかしながら、近年の「修正歴史学」の発展により、様々な関係者(議会派やウィリアム3世など)の利害対立や利己心が明らかにされるにつれ、名誉革命を歴史的な大事業ではなく、単なる「宮廷クーデター」と見る動きも増えてきました。
それにともない、ジェームズ2世の人物像も再評価されてきているようです。
いずれにせよ、ジェームズ2世はイギリスにおける議会政治の興隆の黎明期において、時代に翻弄された王であった、といえるのではないでしょうか。
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