漢委奴国王の金印や大宰府跡など、大陸との外交や貿易の歴史が今も県内各地に残っています。しかし、同時に防人や元寇防塁のように、大陸との戦争の最前線にもなる重要な拠点でもありました。
福岡県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(福岡県) 1,000円銀貨幣
発行年 | 平成27(2015)年6月23日 |
図柄(表) | 沖ノ島と宗像大社と金製指輪 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
1000円銀貨幣の表面には、その都道府県を代表する名所や名産品がデザインされています。
福岡県の記念硬貨に刻まれた3つは、全て「道」の神である宗像三女神を祀る宗像大社に関連するものです。
古くから大陸との交流の「道」として栄えた福岡県にとって、これ以上ないモチーフではないでしょうか。小さくとも宗像大社の荘厳さが伝わるカラーコインになっています。
また、裏面のデザインは「雪月花」をイメージした雪の結晶、三日月、桜の花の組み合わせになっています。
もともと「雪月花」は、白居易の詩の一節「雪月花時最憶君」に由来しますが、日本においては伝統的な日本の美を連想させる言葉です。日本人の心を表す言葉として、数多くのデザインにも使われています。
その美しさが、今回の記念貨幣のデザインにも現れています。
しかし、これらの図案は、ただ組み込まれているだけではありません。裏面にある最も大きな雪の結晶には、下に向けると「60」が、上に向けると「47」の文字が浮かび上がるという、潜像加工が施されています。
これは硬貨の偽造防止のためで、微細点や側面の斜めギザなどとともに使用されています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(福岡県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成27(2015)年7月15日 |
図柄(表) | 九州国立博物館と太宰府天満宮太鼓橋と梅 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
500円記念硬貨の表面も、都道府県を象徴する名所や名産品がモチーフとなっています。
福岡県の図案は、県内にある九州国立博物館と太宰府天満宮、そして、県花である梅の3つです。全国の天満宮の総本宮である太宰府天満宮を中心に、それに関連する3つのモチーフがデザインされています。
また、裏面のデザインは、中央に四角い穴が開いた古銭がモチーフです。
四角に丸の組み合わせは、古代中国における「天は円形であり、地は四角をしている」という「天円地方」の宇宙観を示します。中国では、唐時代の開元通宝や、明時代の永楽通宝のように、古くからこのデザインの通貨が作り続けられていました。
その影響を受けた日本も、和同開珎や寛永通宝のように古銭は「天円地方」の形です。
ただ、この記念硬貨には穴が開いておらず、代わりに潜像加工が施されています。穴から浮かび上がるのは、地方自治法施行60周年を記念した「60」の文字と、47都道府県を示す「47」の文字です。
500円記念硬貨の表面『太宰府天満宮太鼓橋』
福岡県の記念硬貨の図案は、太宰府天満宮の境内にある太鼓橋です。
太鼓の胴のように丸く反った形をしていることから太鼓橋と呼ばれ、日本や中国の庭園でよく使われる形状の橋です。
しかし、大宰府天満宮の境内にある太鼓橋は、ほかの太鼓橋とは趣きが異なります。
天神の霊廟
全国に「天満宮」や「天神神社」と呼ばれる神社は数多く存在しますが、そのなかでも大宰府天満宮は、京都の北野天満宮とあわせて、その総本社に位置づけられています。
学問の神として、そして、日本三大怨霊にも数えられる菅原道真を祀る天満宮ですが、大宰府天満宮は、この地で没した道真の霊廟としての側面もあり、篤く信仰されている神社です。
現在の社殿や境内は、江戸時代初期に黒田氏が整備したものが元になっています。
あの世とこの世を分ける境界
古くから日本では「橋」というのは、あの世とこの世の境を示すものでした。
たとえば、京都の一条戻橋、日光の神橋など、多くの霊山・霊場とされる場所には、現在でも橋がかけられています。そのため境内に橋がある神社というのは、そう珍しいものではありません。
太宰府天満宮の太鼓橋も、参道から社殿、つまりは道真の霊廟へ向かう道中にある心字池にかけられています。これもまた、橋の先、社殿のある場所は「この世」ではない場所であることを暗に示しているのではないでしょうか。
三世一念を表す橋
太宰府天満宮の鳥居をくぐって、すぐに見えてくる太鼓橋は、全国的にも珍しい3つの橋で構成されています。
手前から順番に、それぞれ仏教思想における「過去」「現在」「未来」の三世一念の相を表しており、順番に渡ることで三世の邪念を清められるとされています。
元々、太宰府天満宮は、明治時代の廃仏毀釈までは「安楽寺」という寺院とともに存在していました。そのため、境内には現在でも仏教思想に由来する部分が残っています。
この橋を渡るときは、過去の橋では「後ろを振り返らない」、現在の橋では「立ち止まらない」、未来の橋では「つまづかない」という、それぞれ注意がなされています。
また、本殿からの帰りには、この橋を使用しません。この橋を逆向きに渡ると、「未来」から「過去」へと帰ることになります。そのため、帰りは脇道を通って外へ出る方が良いとされています。
柳川市の記念メダル『水郷 柳川観光メダル』
久留米市には、残念ながら記念メダルがありませんでしたので、久留米市と同じ筑後地方にある、柳川市の記念メダルを紹介します。
柳川市は、市内を縦横に水路が流れることから「水の都」と呼ばれています。また、有明海を臨む城下町としても有名です。
そんな柳川市の記念メダルは、市を象徴する3種類の図案がセットになっています。
詩人 北原白秋の故郷
柳川市は、詩人北原白秋の生まれ故郷です。
白秋の出身である北原家は、江戸時代以来柳川市で栄えた商家であり、白秋自身も幼いころは何不自由なく、過ごしていたといいます。しかし、高校に入学したころから文学に熱中しはじめ、徐々に文壇のなかで頭角を表していきました。
そんな白秋は、1911年に故郷の柳川をうたった詩集「思ひ出」を刊行します。故郷への懐旧が深く表れた詩は、白秋の文名を大きく高めるものでした。
白秋は作品のなかで、故郷柳川のことを「水郷」と称しています。これは現在でも市内に流れる大規模な掘割に由来するものです。
戦国時代から整備され始めた掘割は、最初は市内にある柳川城の堀として開発されました。その後、江戸時代には上水道や農業用水路としての整備が進んでいきます。
その結果、市内の掘割は、有明海の干拓や市内の水運の発展にも寄与し、柳川一帯は城下町として栄えることとなります。
静かな廃市からの復活
しかし、同時に白秋は故郷を「静かな廃市」とも呼んでいます。
江戸時代から変わらない街並みを残したまま発展せず廃れてゆくことを、白秋は嘆いていたのではないでしょうか。
彼の嘆きが現実になるかのように、柳川のシンボルであった掘割は、上下水道や道路網の整備とともに、昭和40年代からゴミの不法投棄が横行し、往時の姿が失われていきました。1977年には、全ての掘割を下水道にする計画が市議会で決定されたほどです。
しかし、翌年の1978年に一転、当時の市の下水課長であった広松伝の研究を受け、市長古賀杉夫が掘割の浄化計画を決定します。
市民も一丸となった掘割の保存活動が開始されたことで、徐々に元の姿を取り戻していきました。
ただ、総延長930㎞にも及ぶ掘割全ての再生が終わったわけではありません。生活排水による水質汚染や下水道の整備など、課題はまだ山積しています。
それでも、市民が守り、美しい姿を取り戻しつつある掘割は、現在は「川下り」の舞台として、多くの観光客に人気のスポットになっています。