なかでも県中部の静岡市は、三方を山に囲まれ、南は駿河湾に面しており、県の特徴を最も表しているといってもよいでしょう。そんな静岡県と県庁所在地の静岡市の記念硬貨を紹介します。
静岡県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(静岡県) 1000円銀貨幣
発行年 | 平成25(2013)年9月7日 |
図柄(表) | 横山大観作 「群青富士」 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
1,000円銀貨幣の裏面は、日本の伝統美を連想させる「雪月花」をモチーフに、各県共通で雪の結晶、三日月、桜の花を組み合わせたデザインです。
このデザインは単に美しいだけではなく、日本が誇る偽造防止技術がふんだんに用いられています。
特に目を惹くのは、裏面にある最も大きな雪の結晶です。ここには、硬貨を下に向けると「60」が、上に向けると「47」の文字が浮かび上がる潜像加工が施されています。
このほかにも、この記念硬貨には、数々の偽造防止技術が使われています。側面にある斜めのギザも、そのひとつです。
100円玉のように側面にギザが入っている硬貨は珍しくありませんが、このキザは硬貨の刻印と同時に施されるという、日本独自の技術で行われています。
また、この硬貨の表面には、都道府県を代表する名所がデザインされています。静岡県を代表する名所といえば、やはり日本最高峰富士山をおいてほかにありません。
日本画の巨匠、横山大観が描いた「群青富士」をモデルにした図案となっており、大観の独特の描画がカラーで描かれています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(静岡県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成26(2014)年1月15日 |
図柄(表) | 富士山と茶畑 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
500円記念硬貨は、日本で初めてのバイカラー・クラッド貨幣です。
この貨幣には、異なる種類の金属板をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」技術と、それでつくられた円板を別の金属の輪にはめ込む「バイカラー」技術の両方が用いられています。
中央と周囲で使用する金属が異なるため、中央部と辺縁部で色味が異なることが特徴です。
また表面の図案は、都道府県を代表する名所がモチーフです。静岡県の図案は、宝永山の見える「静岡県側」から見た富士山と、茶畑となっています。まさに、静岡を代表する名所と名物でしょう。
わずか26.5mmのなかに、雄大な富士山の美しさが描かれています。
裏面は、「地方自治」の4文字を古銭のように四方に配置したデザインです。
貨幣中央の四角いくぼみには潜像加工が施されており、地方自治法施行60年を記念した「60」と47都道府県を示す「47」の文字が浮かびあがります。
このほか、各所に偽造防止のための微細点や微細線加工が施されています。
1,000円記念硬貨の表面 横山大観『群青富士』
富士山を絵にする文化は、平安時代にはすでにはじまっていたとされています。
現代にも「伊勢物語絵巻」や「曽我物語富士巻狩図」などの舞台としての富士山や、山岳信仰の対象としての礼拝画などが数多く残っています。江戸時代には葛飾北斎や歌川広重も、富士山を描いた数多くの作品を生み出しました。
そんな富士山を書き続けた画家のひとりに、横山大観がいます。
日本画の巨匠
横山大観は、1868年に現在の茨城県水戸市で生まれました。
学生時代に絵画に興味を抱き、洋画家や日本画など数々の画家たちに教えを受け、1889年に東京美術学校の第1期生として入学します。
この入学にあたって、大観は鉛筆画での受験を検討していましたが、ほかの受験者たちが何年も高名な師に教わってきたと聞くやいなや、直前で毛筆画に変更。見事、合格を勝ち取ったといいます。
入学した大観は、日本における美術史研究の第一人者である岡倉天心らに師事。そして卒業後、美術学校時代からの盟友である菱田春草とともに、西洋画の画法を取り入れた新たな日本画を模索していました。
そのなかで、師である岡倉天心から「空気を描く方法はないか」と問われ、没線描法という全く新しい画法を生み出します。
この画法は、輪郭を線で明瞭に書かないことで、絵のなかで空気や光線を表現するものです。1,000円硬貨のモチーフである「群青富士」も、この技法で描かれています。
この新進気鋭の画法は、当時の日本画壇で「勢いに欠ける」「曖昧でぼんやりしている」と散々な評価を受けました。
しかし、大観はこの評価に屈することなく、作品を発表し続けます。また、発色の良い西洋絵具を用いることで、先の評価を覆す絵を書くことに成功しました。
以後、大観は大正・昭和を通じて日本画の巨匠として名を馳せます。
大観と富士山
大観は生涯で5,000点以上の絵を描いたとされていますが、そのなかでも、富士山を描いたものは2,000点を超えます。「大観と言えば富士」というのは、実に的確な評価です。
大観の父は熱烈な天皇崇拝者であり、また、師事した岡倉天心も国粋主義者であったことから、大観もまた国粋主義的な一面を持っていたとされています。そのため、日本人の心を表す象徴としての富士山を好んで描いたのではないでしょうか。
1,000円硬貨のモチーフである「群青富士」は、1917年ごろの作品とされています。
雲海を突き抜ける富士を群青で、残雪を白で表した力強い対比が見て取れる作品です。大正期の作品であるため、自由でおおらかな作風が顕著に現れており、はつらつとした初夏の雰囲気が伝わってきます。
現在、元となった作品は静岡県立美術館に所蔵されています。
静岡市の記念メダル「久能山東照宮」
徳川家康は、晩年を駿河国の駿府城で過ごしていました。
そんな家康は、生前より家臣たちに自分の死後について、こう言い残していたといいます。「遺体は駿河国の久能山へ、江戸の増上寺で葬儀を行って、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌を過ぎた後、下野の日光山に小堂を建てよ」と。
この遺言に従い、静岡市の久能山に家康を祭る久能山東照宮が建てられました。
家康因縁の場所
久能山は、山そのものが史跡指定されている珍しい場所です。そして、この地では家康の運命を変えたであろう数々のドラマが繰り広げられました。
元々、この山には久能寺というお寺があったといいます。この寺は1536年に今川氏の跡目争いである花倉の乱において、今川義元と敵対する武将らの拠点となりました。
もし、このとき義元が負けていれば、家康が今川氏の人質になる未来は変わっていたかもしれません。
そして時代は下り、1568年には甲斐から武田信玄が駿河へと侵攻します。このとき、信玄は久能寺を移転させてまで、この地に新しい城を築城しました。
こうして完成した久能城は以後、信玄が没するまで駿河侵攻の拠点であり続けました。家康にしてみれば、武田軍の前線基地です。この地を武田に押さえられたことで、駿河地域の支配権を家康は失ってしまいました。
家康の御廟として
582年に武田氏が滅ぶと、久能山の城は家康のものとなりました。
散々に苦難を味わった家康は、死の間際にも「久能山は駿府城の本丸だと思え」と言われたと伝わっています。
そのようなことから、駿河鎮護のための場所として、家康は自分の墓所に久能山を選んだのかもしれません。
1616年に創建された久能山東照宮は、平成27(2015)年に開基400年を迎えました。戦国時代の幕引きを務めた家康の願いは、これからも受け継がれていくことでしょう。
このメダルを手にしたときは、是非、400年続く家康の思いを考えてみてはどうでしょうか。