島根という名前は、奈良時代にまとめられた「出雲国風土記」によると、この地にいた八束水臣津野命(やつかみずつおみつのみこと)という神が、現在の松江市の一部を「島根郡」と呼んだことが由来とされています。
島根県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(島根県) 1000円銀貨幣
発行年 | 平成20(2008)年10月14日 |
図柄(表) | 御取納丁銀と牡丹 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
地方自治法施行60周年記念貨幣の表面には、各都道府県を代表する名物が色鮮やかに描かれています。
神話の国島根県のデザインは、島根県の県花である牡丹と、1557年に正親町(おおぎまち)天皇の即位のときに毛利氏が献上した御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)です。牡丹の鮮やかな赤に御取納丁銀のまばゆい輝きが映えるデザインとなっています。
また、裏面には雪の結晶と月、そして、日本の国花である桜の3つを組み合わせたデザインが施されています。
このいわゆる「雪月花」の組み合わせは、もとは唐の時代の白居易の漢詩に由来するものです。遠く離れた場所にいるかつての部下にむけて、ともに過ごした日々を思い出す語として、「雪月花時最憶君」と記しています。
その後、日本では、伝統的な美しさを感じさせる言葉として、また、美しい景物を愛でる風流な態度を表す語句として理解されるようになりました。
このように日本らしいデザインを豊富に取り入れた記念硬貨ですが、この硬貨のもうひとつ素晴らしい点は、随所に施された偽造防止技術です。
デザインを邪魔しないようにつけられた微細線や微細点加工もさることながら、裏面に施された潜像加工は見事というほかにありません。硬貨を傾けると47都道府県を意味する「47」と地方自治法60周年を記念した「60」が浮かび上がるようになっています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(島根) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成20(2008)年12月10日 |
図柄(表) | 銅鐸とその文様・絵画 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
地方自治法施行60周年記念の500円記念硬貨にも、各都道府県を代表する名所や名産がデザインされています。
島根県の図案は、歴史の教科書でもおなじみの銅鐸です。
実は、島根県雲南市にある加茂岩倉遺跡は、日本最多となる39口もの銅鐸が発見された遺跡です。過去に類を見ないほどの大量の銅鐸の出土は、島根県のみならず日本の歴史をも揺るがす世紀の大発見となりました。
またこの硬貨は、日本でははじめてとなるバイカラー・クラッド技術を用いた硬貨です。異なる種類の金属板をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」技術と、その金属板を別の金属の輪にはめ込む「バイカラー」技術の両方を用いてつくられるため、硬貨の中央と縁で色味が異なるのが特徴です。
ほかにも、この硬貨には数々の偽造防止技術が施されています。裏面の潜像加工や側面に施された向きの異なるギザ模様など、技術的にも視覚的にも偽造防止効果の高い技術を余すことなく使用しているこの硬貨は、まさに日本の誇る技術の結晶といってよいでしょう。
このときの技術は、このあと2021年から発行が開始された新500円硬貨の作成にもいかされています。
【500円記念硬貨の表面「銅鐸とその文様・絵画」】
平成8(1996)年10月14日、この日、島根県加茂町(現雲南市)の岩倉地区では、朝早くから農道の建設工事が進められていました。
午前10時ごろ、重機による掘削作業中に突如として異様な音が現場一帯に響きました。ただちに担当者は重機を止め、文句を言いながらも、音のもとへと歩み寄ります。
これこそが、のちに日本の考古学会を大きく揺るがす加茂岩倉遺跡の発見でした。
歴史を変えた発見
発見後すぐに調査が開始された加茂岩倉遺跡からは、同一の遺跡からの出土数としては日本最多となる39もの銅鐸が発見されました。
これまで発見された銅鐸は、全国で約500点が確認されていますが、その約10分の1の数が単一の遺跡から見つかっている計算になります。
つまり古代の出雲には、これだけの数の銅鐸を生産できるだけの技術者と資源、そして、それらを統括できる強いリーダーがいたことが推察できます。
もしかするとこの勢力は、近畿地方や九州北部の勢力たちと時には戦い、時には友好を結んでいたのかもしれません。そして、その歴史が今に伝わる日本神話の原型となったとするというのは考えすぎでしょうか。
いずれにせよ、この遺跡の発見が日本の考古学会を大きく揺るがすものとなったことは間違いありません。
銅鐸とは何か
歴史の教科書ではおなじみの銅鐸ですが、もともとは古代中国で用いられた楽器の一種です。
釣り下げる鐘と比べると小型で、手にもって打ち鳴らしていたとされています。主に紀元前2世紀から2世紀までの400年間ほど作られており、弥生時代に最盛期を迎えました。
日本の銅鐸は、現在の鐘に近い形であり、実際に釣り下げて使われていたと考えられています。また、発見場所が近畿地方を中心に静岡県から西でしか発見されていないことも特徴です。
近畿地方で生産された銅鐸には、必ず文様がつけられています。その中で最も多いのは「袈裟襷文(けさたすきもん)」と呼ばれる模様であり、直交する縦と横の模様が表面に刻まれているのです。
加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸も、近畿地方で発見された銅鐸と同じ袈裟襷文様がつけられており、両地方の関係性をうかがわせるものとなっています。
また、当時の家屋や農耕の様子などを刻んだ銅鐸も少なくありません。そのため、銅鐸は何かしらの宗教的な祭祀に用いられていたと考えられています。
なぜ、銅鐸は埋められたのか?
現在発見される銅鐸は、そのほとんどが埋納、つまり、土に意図的に埋められた状態で発見されています。
また、埋められていた場所も集落から少し離れた丘の麓か、もしくは頂上から少し下った場所であることがほとんどです。この埋める場所にも古代人の何かしらの意図を感じずにはいられません。
銅剣や銅矛などのほかの青銅器とは異なり、銅鐸は過去一度たりとも墓からの副葬品としての出土例がないことも特筆すべきことです。
これらの謎に対して、さまざまな説が提唱されています。たとえば、小説家の松本清張は「埋めたままうっかり忘れてしまった」と論じていますが、歴史家の古田武彦は「外敵に見つからないように埋めた」と語っています。
しかし、いずれの説も根拠に足るものがなく、依然として結論が出ていません。果たして、銅鐸を埋めた古代人は何を、もしくは何に祈っていたのでしょうか。
【出雲市の記念メダル「出雲大社」】
日本には神話の時代から現代まで続いているという神社が珍しくありません。
奈良県の大神(おおみわ)神社や福岡県の住吉神社や宗像大社、長野県の諏訪神社など、これらの神社は現代においても多くの人たちの信仰を集めています。
しかし、そんな数多くの神社のなかでも、やはり出雲大社は別格でしょう。出雲市の記念メダルにも刻まれた出雲大社とは、どのような神社なのでしょうか。
国譲り神話 ~高天原VS葦原中国~
出雲大社の創建を語る上で、国譲りの話は避けられません。
古事記や日本書紀によると、高天原(たかまがはら)の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、地上の葦原中国(あしはらなかつくに)の平定を、自身の息子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に命じます。
しかし、葦原中国は大国主神(おおくにぬしのかみ)が支配しており、平定に現れた天忍穂耳命を自分の陣営に引きこんでしまいます。
ここから、高天原の天照大神と葦原中国の大国主神との長い戦いが幕を開けました。
高天原からは幾柱もの神々が送り込まれ、大国主神はその度に硬軟織り交ぜた戦いを繰り広げます。しかし、長年続いた神々の戦いは、最後は大国主神が折れる形で決着しました。
このとき大国主神は葦原中国を譲る代わりに、立派な住処を要求します。これに従って出雲にある多芸志の浜に建てられたのが出雲大社です。
もっとも建てられた当時の社殿は高さ96mもの高層建築であったことが、2000年から行われた発掘調査で明らかになっています。
現在の形の本殿になったのは江戸時代になってからであり、平安時代でも48mという巨大神殿であったことが記録に残っています。
出雲大社の不思議な風習
現代では縁結びの神様として知られる出雲大社ですが、出雲大社を中心として島根県には不思議な風習が現代にも残っています。
その最たるものが参拝のしかた。一般的に神社の参拝方法は「二礼二拍手一礼」ですが、出雲大社は「二礼四拍手一礼」で参拝します。ただ、これは平時の作法であり、式典における正式な作法は「二礼八拍手一礼」となっています。
日本において数字の「8」は、無限を意味する数です。つまり、八回の拍手は神様を無限の拍手で称えるという作法となっています。
また、出雲大社は珍しい下り参道になっている神社です。本来、神社は山の上などに建てるため参道は登り道になっています。
参道が下り道になっている神社は、ほかに群馬県の貫前神社や宮崎県の鵜戸神社など数えるほどしかありません。そのなかでも、出雲大社という神社が下り参道になっていることには、何かしらの意図を感じます。
そんな神話と古代のロマンが詰まった出雲大社の記念メダルはいかがでしょうか。