県庁所在地における快晴日数と降水量1mm未満の日数は全国最多、つまり、日本で最も雨が降らない街です。まさに「晴れの国」のキャッチフレーズを冠するにふさわしい県といえるでしょう。
岡山県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(岡山県) 1,000円銀貨幣
発行年 | 平成25(2013)年8月6日 |
図柄(表) | 岡山後楽園と桃太郎 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
地方自治法施行60周年記念貨幣は、各都道府県を代表する名物を取り入れたデザインがされています。
晴れの国岡山のデザインは桃太郎と岡山後楽園です。古代、吉備国と呼ばれていた岡山県は桃太郎発祥の地とされています。
岡山県の各地にある桃太郎にまつわる伝説や史跡を見ていると、この伝説が単なるおとぎ話ではなく、実際にあった歴史上の出来事のように思えてきます。
この硬貨の裏面は全都道府県共通で雪の結晶と月、そして、日本の国花である桜の3つを組み合わせたデザインです。
この「雪月花」の組み合わせは、古くは自然美を称える言葉として、現代では日本の伝統的な美しさを感じさせる言葉として、さまざまな場面に用いられています。まさに日本の素晴らしさを伝えるのに、これ以上ないデザインといえるでしょう。
ほかにもこのデザインには潜像加工が施されており、硬貨を傾けると「47」と「60」が浮かび上がる心憎いしかけが施されています。
また、この記念硬貨はデザインもさることながら偽造防止技術の観点から見ても、素晴らしい出来栄えの硬貨です。
たとえば、硬貨の縁に斜めにギザ模様をつける機械は、世界的に認められた日本独自のものです。
デザインを邪魔しないようにつけられた髪の毛ほどの微細線や、目をこらしても良く見えない微細点加工など、これまで以上に偽造ができない硬貨となっています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(岡山県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成26(2014)年1月15日 |
図柄(表) | 岡山後楽園 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
地方自治法施行60周年記念の500円記念硬貨は、日本でははじめてとなるバイカラー・クラッド技術を用いた硬貨です。
異なる種類の金属板をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」技術と、その金属板を別の金属の輪にはめ込む「バイカラー」技術の両方を用いた硬貨は、海外では数多く存在しますが、日本ではこの記念硬貨で初めて導入されました。
またこの技術は、このあと2021年から発行が開始された新500円硬貨の作成にもいかされています。
この硬貨にも1000円硬貨と同様に、表面には都道府県を代表する名所や名産品が図案化されています。
岡山県の図案は、1,000円貨幣にも刻まれている後楽園です。広大な庭園が小さな硬貨のなかに精密に刻まれています。
また、裏面は日本の古銭がモチーフです。和同開珎や寛永通宝のように、「地方自治」の4文字が四方に配置されています。
この硬貨は日本の誇る最新鋭の偽造防止技術の結晶ともいえる硬貨です。その技術が特に現れているのが、硬貨の側面です。
側面をよく見てみると、側面に刻まれたギザ模様の向きがいくつか異なっていることが分かります。この異形斜めギザと呼ばれるこの偽造防止技術は、日本が独自に開発したもので、硬貨への採用は2度目です。
技術的にも視覚的にも偽造防止技術が高いため、大量発行される新500円硬貨にも採用されています。
【1,000円記念硬貨・500円記念硬貨の表面「後楽園」】
水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ日本三名園が、岡山の後楽園です。
岡山城とは市内を流れる旭川を挟んですぐ北側にあり、多くの観光サイトでもこの2か所はまとめて紹介されています。
岡山城からも見下ろせる庭園は、歴代の藩主によって幾度となく改築が行われてきました。そのため園内には、時代の異なる歴史的建造物が多数存在します。
また、園内には数多くの植物が植えられており、四季折々の素晴らしい姿が堪能できます。江戸時代から受け継がれてきた庭園は、まさに岡山を代表する名勝です。
水害からの復活
後楽園は、岡山市を流れる旭川の中腹、広大な中州にある庭園です。
もともと市内を南北に流れていた旭川は、岡山城築城時に東側へ蛇行するように流れを強引に変えられました。結果として、江戸時代初期には岡山城下は何度も水害に悩まされることとなります。
氾濫のたびに藩の財政を圧迫する旭川を何とかすべく、藩主の池田光政(いけだみつまさ)は学者の熊沢藩山(くまざわはんざん)の助言のもと、大規模な水路工事を開始します。
この工事は次代の藩主池田綱政(つなまさ)の時代に完成し、結果として岡山城の北側に広大な中州が生まれることとなりました。
この中州に、1687年に綱政は庭園をつくることを命じます。綱政は庭園の完成が相当に楽しみだったようで、参勤交代や政務の間を縫って何度も工事中の庭園を訪れていたことが記録に残っています。
その後、何度か洪水の被害を受けながらも、1700年に現在につながる後楽園の形が完成しました。
藩主の好みで変わる庭
後楽園は、藩主の好みや当時の庭園の流行りなどを取り入れ、何度か大規模な工事が行われた庭園でもあります。
たとえば、後楽園の原型をつくった綱政は、田園風景を好んだため庭園内に田んぼや畑が数多く配置されていました。
綱政のこだわりは、自らお田植え行事を開催したり、完成したばかりの能舞台で自分の能を領民に披露したりと、非常に強いものであったことが記録に残るほどです。
後を継ぐ子の継政(つぐまさ)の時代は、庭園内に盛り土をしたり池を掘ったりして、同じ園内に違う景色を生み出します。この結果、後楽園には庭園内を散策する楽しみが生まれました。
しかし、継政の孫にあたる池田治政(はるまさ)の時代、岡山藩は大規模な財政難に悩まされることとなります。倹約のために庭園の管理にあたる人間を削減し、田畑を芝生に変えました。
このように、後楽園の景観は代々の藩主による変化が積み重なってできたものです。
現在の後楽園
後楽園は綱政の時代から、限定的なものの領民でも見ることができる、開かれた庭園でした。
その後、明治に入り岡山県の所有になると、広く一般公開されることとなります。戦中・戦後を通し、園内の数多くの建物が焼失しますが、昭和42(1967)年に一連の復元工事が終わり、かつての姿をとりもどしました。
現在の後楽園は、岡山を代表する観光地として全国に名前が知られています。また、春の茶会にはじまり、初夏の茶摘みやお田植え祭り、秋には名月観賞会や能舞台など、年中を通して行事が盛りだくさんなのも後楽園の特徴です。
このような多くの人が楽しめる行事の数々には、移り変わる田園風景を好んだ綱政の心が受け継がれているのかもしれません。
【岡山市の記念メダル「岡山城」】
岡山市の記念メダルは、後楽園とともに市のシンボルともいえる岡山城です。
現在、日本にある天守閣は世界遺産である姫路城を筆頭に、その多くが白色をしています。
しかし、岡山城は全体が黒漆喰で塗られているため、「白鷺城」とも呼ばれる姫路城と対比して「烏城」とも呼ばれるほどの黒さを誇ります。
なぜ、このような黒い城が築かれたのでしょうか。
梟雄から受け継がれた城
戦国時代の岡山県一帯は小規模な大名が乱立し、それぞれが互いに戦い合う状況が続いていました。
しかし、東からは織田氏が、西からは毛利氏が圧迫するなかで、大名たちはどちらにつくかの選択を迫られることとなります。
その混乱に乗じて備前(現在の岡山県南東部)一帯に勢力を築いたのが、梟雄(きょうゆう)とあだ名される宇喜多直家(うきたなおいえ)です。
備前を平定した直家は、現在の岡山城がある場所を中心に城下町の整備を進めていきました。
その後、直家の子である宇喜多秀家(ひでいえ)は、新しく本丸や天守の建築を進め、直家時代の城を取り込む形で新しい城を築城します。これが現在に伝わる岡山城の大元です。
しかし、秀家は関ヶ原の戦いで西軍についたため八丈島へ流罪となります。その後、岡山城は1603年に池田氏に与えられ、以後、池田氏が城内の増改築を繰り返しながら現在へと至ります。
岡山城が黒い理由
岡山城の天守閣が築かれたのは、秀家の時代です。
彼が岡山城主であった時代、城は小高い山の上に巨大な城を築くことが主流になっていました。これは城が単なる軍事施設ではなく、政治的な中心地としての役割を果たすようになったことが理由とされています。
ただ、敵に見つかりにくい方が軍事施設としては最適です。そのようなこともあり、岡山城は黒く塗られたとされています。
そのため、岡山城だけではなく関ヶ原の戦い以前に建てられた城は黒い城ばかりです。
岡山城と後楽園
岡山城からは旭川を挟んで北側にある後楽園が一望できます。もしかすると、歴代の藩主たちも天守閣から庭園を眺め楽しんでいたのかもしれません。
反対に、後楽園側からも岡山城の黒々とした威容を見ることができます。その威容は後楽園の風景に見事に溶け込み、ひとつの絵画のようです。
このように岡山城と後楽園は、切り離すことのできない関係にあります。
この記念メダルも、片面に岡山城、もう片面には後楽園と互いの強い関係を示すようなデザインになっています。
岡山県に訪れた際は、一大観光地の記念メダルをぜひ一枚いかがでしょうか。