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昔の大判・小判、価値はどのくらい?古銭の歴史も紹介

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金は見た目にも美しく映える金属です。

それ以外にも、酸化しにくい、希少価値が高い、柔らかく加工しやすいなどの理由で、古来、洋の東西を問わず貨幣の材料として利用されてきました。
古くは古代ローマで作られたソリドゥス金貨にはじまり、近代にはイギリスのソブリン金貨やフランスのナポレオン金貨、現代でもカナダのメイプルリーフ金貨やオーストリアのウィーン金貨など、数多くの金貨が作られています。

それは日本も例外ではありません。
戦国時代に各地の大名が我先にと鉱山開発に投資した結果、江戸時代の日本は世界でも類を見ないほどの金の産出国となっていました。
その有り余る金を活用して、江戸時代には何種類もの大判や小判が作られています。

今回は、江戸時代に流通した大判や小判の価値、そして、日本がたどってきた金貨に関する歴史について解説していきます。

1. 希少な大判・小判:高額取引される種類

そもそも大判と小判は、どちらも江戸時代に日本で流通した金貨を指します。

円形のものが多い他国の金貨と比較すると、楕円形で薄い板状になっていることが最大の特徴です。
大型のものが大判、小型のものが小判とされていますが、その大きさは鋳造年代や種類によってバラつきがあるため、なかには大判よりも大きい小判や、逆に小判よりも小さい大判も存在します。

また、大判と小判には鋳造者を示す墨書きや、含まれている金の割合や金貨の品位を示す極印が打たれています。
これらの金としての品質や歴史的な価値、そして、希少性などが加味されて大判・小判の相場は決定されます。

■ 希少価値のある大判

江戸時代を通じて、大きく分けて5種類の大判が発行されたことが記録に残っています。
当時は大判1枚で米40~50石(約7t)が買えたとされていますが、その高額さから商品取引には使われることは珍しく、基本的には家臣への褒賞や贈答用に用いられたそうです。
そんな大判のなかでも、現在、市場で高額で取引されている大判を3種類紹介します。

・慶長大判

発行年間1601年~1660年
希少価値普通
金の含有率最初期は約73%、後期は71%
取引相場最低でも数百万円

江戸時代初期に徳川家康によって発行がはじめられた慶長大判は、江戸時代を通じて大判のモデルとなりました。
大判の重さである44匁(約165g)が正式に決定されたのも、この慶長大判が最初です。
表面には鏨(たがね)を使った美しい模様が刻まれており、単純な金としての価値だけではなく、美術品としての価値も高い大判です。

また、慶長大判は作られた場所や極印の数などから、いくつかの種類に分けられています。
そのなかには、非常に高値で取引されるものも存在し、特に明暦判と呼ばれる1657年の明暦の大火以後に作られた大判は現存数も少なく、収集家や愛好家の間で高い人気があります。

希少性や美術的価値、歴史的価値などが加味されており、その取引相場は最低でも数百万円以上です。
美品ともなれば、さらに高値がつくことでしょう。

・天保大判

発行年間1838年~1860年
希少価値非常に高い
金の含有率67.36%
取引相場200~700万円

老中水野忠邦による天保の改革が行われた時代に作られたのが、天保大判です。
江戸時代末期の日本では、各地の金山で金が枯渇してきており、大判がつくられていない時代がしばらく続いていました。

そのなかで久方ぶりに鋳造がはじまった天保大判には、幕府の財政を通貨発行益で立て直すことを期待されていましたが、発行を急いだ結果、ひどいインフレーションに悩まされることになりました。

そんな経済的には失敗ともいえる天保大判ですが、表面の大きな墨書きの美しさや総発行枚数1,887枚という希少性から、コレクションに加えたいコレクターは多く、高値で取引されています。

・万延大判

発行年間1860年~1874年
希少価値高い
金の含有率36.35%
取引相場200~400万円

万延大判は新大判とも呼ばれる日本で最後の大判です。

これまでの大判と異なるポイントは、その重さです。
これまでの大判は44匁(165g)と定められていましたが、この万延大判は30匁(112.5g)と、これまでの重さの7割ほどしかありません。
また、金の含有率が、この前に出された天保大判と比較しても圧倒的に下がっています。

大判とはいえないような大判ですが、軽く金の含有率も下がったことで、これまでの大判とは異なり、実際に通貨として活用されるようになりました。
実際に流通停止の法律が出される明治初期まで、高額取引に利用される通貨として重用された記録が残っています。

■ 希少価値のある小判

江戸時代を通じて、小判は10種類が発行されました。
よく時代劇などで出てくる「金1両」というのは、小判1枚という意味です。
本来、「両」は重さを表す単位ですが、貨幣を決まった形と重さで作成できるようになった戦国時代以降、貨幣の単位としても使われるようになったといいます。

小判の発行をはじめた江戸幕府は、いずれ小判を全国的に流通させる考えを持っていました。
ただ、日本の金山は佐渡を筆頭に甲斐(山梨県)、伊豆(静岡県)など、ほとんどが東日本に存在していたため、主に関東地方を中心に流通することとなりました。
そんな10種類の小判のなかでも、特に市場で人気のある2種類の小判を紹介します。

・慶長小判

発行年間公式記録では1601年~1698年、ただし非公式には幕末まで流通
希少価値普通
金の含有率86.28%
取引相場200万円

全国統一を達成した徳川家康は江戸幕府の設立と同時に、全国的な貨幣制度の統一を実施します。
これから平和な時代になり経済も活発になっていくなかで、各地で使われている貨幣が異なることは大きな障害です。
そこで家康は全国的に流通する金貨として、慶長小判の発行をはじめました。

ほぼ1世紀にわたって発行が続けられたため、枚数が膨大であり製造場所や模様など多様な種類があることが特徴です。
なかには、現存枚数が極端に少ない種類のものも存在し、それらは高値で取引されています。
特に、偶然にも極印が「大」と「吉」となった「大吉小判」は、その縁起のよさもあり、多くのコレクターが狙っている珍品です。

また、慶長小判は品質が非常に良かったため、幕府が流通禁止を命じた後も多くの商人や大名たちが隠し持っていたといいます。
幕末にも使われたという話もあり、その品質の高さを裏付けるエピソードといえるでしょう。

・元禄小判

発行年間1695~1718年
希少価値普通
金の含有率57.37%
取引相場180万円

元禄小判が発行された時代は、佐渡金山の産金が衰退をはじめた時代です。
また、参勤交代によって全国交流が活発になったことによる市場規模の拡大、加えて、日本から金銀が輸出されていたことによる材料の不足などから、幕府の財政が非常に悪化していた時代でもあります。

そのなかで発行がはじまった元禄小判は、その通貨発行益によって幕府の財政をある程度回復させました。
しかし、市場に急激なインフレを招いた上に、貨幣としても出来が悪かったことから、市井の評判は非常に悪く、18年で発行が停止することになりました。

そのため、元禄小判には金銀の貴金属的な価値よりも、短期間しか発行されていないことによる希少性に価値を見出す場合がほとんどです。

2. 大判・小判が高値で取引される4つの理由

大判・小判は、同量の金地金と比べても遥かに高額の相場で取引されています。
なかには1枚で1000万円を超える価格で取引されるものも存在しており、昨今の金価格の高騰の余波からさらに高額になることが予想されています。

大判・小判が高値で取引される理由には、単純な貴金属としての資産価値以外にも、歴史的・文化的な価値や現存枚数が少ないことによるプレミアが加わることが大きな要因です。
そして、これら3つの要因に保存状態の良し悪しが加わり、最終的な価格が定まります。

■ 貴金属としての価値

現代の貨幣制度には大判・小判は組み込まれていないため、通貨としての使用はできません。
結果、両方とも通貨としての価値は存在せず、基本的には含まれている金や銀に価値を見出す場合がほとんどです。
江戸時代の日本産の金は非常に良質であったことが記録からも分かっており、それを利用して作られた大判・小判は、現代でも金地金の一種として扱われています。

一例を挙げると、江戸中期に作られはじめた元禄小判の場合、小判の重さは17.76g、金の含有率は全体の57.37%と定められています。
この記録に基づくならば小判1枚に含まれている金は、およそ10.8gです。
2024年現在、金は1gあたり約1万3000円前後で取引されているため、単純計算で元禄小判は1枚で13万円もの価値があるということになります。

■ レプリカでも価値が高い場合あり

貴金属の資産的な価値を考慮すると、大判・小判はレプリカであっても価値が認められる可能性があります。
明治時代に正式に廃止された大判・小判ですが、現代でも時代劇の小道具や記念品として作られています。

このレプリカのなかには、大きさは当時の大判・小判と同程度ですが、純金製というものも少なくありません。
そのため金地金としての価値が認められ、高額で取引されています。

ただし、レプリカのなかには金色に塗っただけの代物も存在しています。
あくまでも「大判・小判のレプリカだから価値がある」のではなく、「含まれている貴金属」に価値があるという点を誤解しないようにしましょう。

■ 歴史的・文化的価値

大判・小判が高価になる最も大きな理由に、これらが歴史的・文化的な価値を持つことが挙げられます。
過去、使われていた貨幣は、その時代の日本の経済や流通状況などを知る上での重要な手がかりです。
実際に小判1枚でどの程度の品物が購入できたかが分かれば、当時の経済がインフレなのか、デフレなのかも判断できるでしょう。

また、金の含有率を調べれば日本国内にある金の埋蔵状況がどのように変化したのかについても、およその見当を付けることができます。
同様に貨幣の流通範囲を考えれば、当時の交流圏も自ずと見えてきます。
これらの資料的な価値が、大判・小判の価値を高める要素です。

■ 希少性・コレクター

前提として、時代や国を問わず、銅や鉄でできた貨幣は発行枚数が多く、金や銀などの貴金属でできた貨幣は数が少なくなります。
また、古い貨幣は新しい貨幣の流通の妨げになるため、一般的には新貨幣の流通が開始された段階で政府によって回収されます。
なかでも金属貨幣は鋳つぶして新しい貨幣の材料にするため、そもそも古銭、特に古い時代の金貨が現代に残っていること自体が極めてレアケースです。

著名な博物館であっても実物を所持していないという金貨は少なからず存在し、そのような金貨は当然ですが希少価値からプレミアが付き、古銭を専門に扱うコレクターの間では高値で取引されています。

それは日本の大判・小判も例外ではありません。
純度の高い日本の大判・小判は、同量・同純度の金と比べても歴史的価値が加わる分だけ相場が高くなっています。

■ 保存状態

確かに金は、ほかの金属と比べると酸化しにくい金属です。
しかし、さすがに発行されてから長い年月が経つと、どうしても黒ずみのような変色や傷などが発生することは避けられません。
また、手の脂を原因とする汚れも目立つようになってきます。

通常の金地金を取引するときと同様に、大判・小判も取引するときは保存状態が重要になります。
汚れや傷、変色などを防ぐためにも、空気を通さない密閉容器に保管しておくと品質維持が可能です。

また、売買するときは信頼できる鑑定士に依頼し、保存状況や金の含有率などを確認してもらいましょう。
品質保証があると、より高額で取引できる可能性があります。

■ 大判・小判の歴史:現代の貨幣価値に直すといくら?

江戸時代を通じて、大判は5種類、小判は10種類が発行されました。
そのいずれもが現代ではプレミアがつき、当時の貨幣価値よりも高値で取引されています。

しかし、大判・小判は当時、どれくらいの取引に使われていたのでしょうか。
ここからは、大判・小判の歴史を紐解くとともに、現代の貨幣価値に直した場合の価値を算出します。

■ 日本最古の金貨は『開基勝宝』

日本における最古の金貨は、奈良時代の760年に発行された開基勝宝(かいきしょうほう)とされています。
記録によると、開基勝宝は当時政権を主導していた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって、銀銭の太平元宝、銅銭の万年通宝と一緒に発行されたとされています。

ただ、記録に残る開基勝宝の鋳造枚数は非常に少なく、出土したものを比較しても重さや大きさにばらつきがあるため、枚数を数えて使う計数貨幣として考えると明らかに不適格です。
そのため、この金貨は「流通を目的とした貨幣ではなかったのでは」と考えられています。

現在、最も有力な説としては、発行時の記録に「万年通宝100枚で開基勝宝1枚分とする」との記載があることから、この金貨は同時に発行された万年通宝の価値を決定する基軸通貨としての役割があったのではとされています。

■ 大判の起源は安土桃山時代

奈良時代には積極的に自国で通貨を発行していた日本ですが、平安時代の終わりごろから中国の良質な貨幣が輸入されはじめたことで、しばらくの間日本では貨幣そのものが作られなくなってしまいます。

しかし、戦国時代になると多額の戦費を確保するために、各地の戦国大名は我先にと鉱山開発を始めました。
同時期に金や銀の優れた精錬技術が大陸から伝わったことも開発に拍車をかけました。

安土桃山時代に入り全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、1588年に代々金細工師を継いでいた後藤四郎兵衛(ごとうしろうべえ)家に、金貨の鋳造を命じます。
こうして出来上がったのが、日本で最初の大判である天正大判です。

その重さは1枚44匁、グラムに直すと165gのかなり重たい金貨でした。
現在の価値にすれば、その金の価値だけで100万円を超える価値を持つ非常に高級な貨幣です。

ただ、大判は商取引に用いられることは珍しく、主に家臣への恩賞や贈答用のものでした。
秀吉は何か喜ばしいことがあるたびに、家臣に金銀を惜しげもなく配っていたといわれているため、このなかには天正大判もあったことでしょう。
この家臣への恩賞として大判を贈る慣習は江戸時代以降も受け継がれることとなります。

■ 大判と小判:当時の価値

江戸幕府を開いた徳川家康は、バラバラであった各地の貨幣制度を統一し、新しい貨幣を発行します。
そのうち、金が使われたものが慶長大判と慶長小判です。

大判は引き続き贈答用や恩賞用として使われていましたが、小判は商人や大名を相手にした大口の取引に使われ、このころから徐々に金貨が市井にも広まっていきました。

さて、江戸時代最初期に発行された慶長小判1両を現代の価格に換算するといくらになるのでしょうか。

小判1両の交換比率は、家康によって銭4000文と定められていました。
また、当時はそば1杯の値段が16文でした。
現在のそば1杯はおよそ450円であることから考えると、1両で4000文÷16文=250杯のそばが食べられ、450円×250杯=112,500円という計算になります。

ただ、江戸時代と現代では物価が異なる上に、地域差もあるため必ずしもこの金額になるとは限りません。
また、江戸時代は期間が長いため、物価の高くなった時代で考えると、より高額になる可能性がある点には注意が必要です。

■ 新貨条例による終焉

明治時代に入っても江戸時代に制定された金貨・銀貨、そして、銅貨の3種類の貨幣を使う制度は続いており、それまでに発行された大判・小判も使用することができました。

しかし、東日本の金使いと西日本の銀使いという決済方法の違い、各藩が独自に発行していた藩札の整理などの諸問題も同時に引き継ぐこととなりました。
また、戊辰戦争やその後の士族の反乱による財政難から、明治政府は貨幣制度の改革を急ぐこととなります。

その改革の結果、明治4(1871)年に新貨条例が制定されます。
これによって新たに通貨の単位として「円」を使用することが決定しました。
また、世界的な貨幣制度に倣い、金を中心とする金本位制度が導入されたことで、同じ価値を持つ金と交換できる兌換紙幣の発行もはじまりました。

しかし、この法律は同時にこれまで流通していた大判や小判を廃止するものでした。
明治政府は小判1両に対して1円としての交換に応じることを約束し、各地の大判・小判を回収していきます。
実際、この法律の2~3年後には完全に大判・小判は市場から完全に姿を消したとされています。

3. 家に眠っている大判・小判がプレミア価値の可能性も?

現存している大判・小判は、非常に貴重なものです。
明治時代の新貨条例、度重なる戦火や災害を潜り抜けてきた大判・小判には、金でできているという資産的な価値に加えて、歴史的・文化的な価値が加わります。
自宅にある大判・小判を鑑定してみたら、非常に価値のあるものであるかもしれません。

大勢のコレクターが狙っている大判・小判にはプレミアが付きます。
しかし、長い年月の間にレプリカや偽物なども出回っている大判・小判を鑑定することは、素人には困難です。
売買の前には信頼できる鑑定士に依頼しましょう。
特に、古銭の買取実績のある業者に依頼すると、適切な価格を付けてくれるでしょう。

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