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フランス革命後、ナポレオンが皇帝になりフランスのみではなくヨーロッパ諸国に勢力を拡大していきました。ロシア遠征が失敗に終わり、ワーテルローの戦い後に王政復活としてルイ18世がフランス国王として君臨しました。ルイ18世崩御された後より王政復活を強固なものにしようと政治を行ってきたシャルル1世、ブルボン王家最後の国王であったシャルル1世の治世と硬貨についてお話いたします。
フランス国王であるシャルル10世は、ブルボン王家から国王になった最後の人物です。フランス革命が勃発する30年ほど前の1757年に彼はルイ・フェルディナン・ド・フランスの子供としてこの世に生をうけました。
ルイ・フェルディナン・ド・フランスはフランス国王ルイ15世の長男ですが、彼は父親の後を継いでフランス国王になることはありませんでした。彼には多くの兄弟がいますが、その中でも特に有名なのが兄であるルイ・オーギュストとルイ・スタニスラス・グザヴィエです。
同じ父親と母親の間から生まれたものの、彼と兄のルイ16世やルイ18世との関係は決して良好なものではなくて、兄弟としての親密な交流はあまりありませんでした。ですがルイ16世の后であるマリー・アントワネットとは仲が良かったことが知られていて、彼はマリー・アントワネットの交友相手の一人でした。
彼は1773年にサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘であるマリー・テレーズと結婚します。彼女の姉であるマリー・ジョゼフィーヌもシャルル10世の兄であるルイ18世と結婚しています。マリー・テレーズはシャルル10世がフランス国王に即位する前に亡くなったために、フランス国王妃となることはありませんでした。
シャルル10世は彼女ではなくて他の女性と結婚することを望んでいたために、彼らの結婚生活は幸せなものではありませんでした。彼と彼女の間には二人の男の子が生まれ、長男のルイ・アントワーヌは後にアングレーム公となりました。次男のシャルル・フェルディナンはベリー公になっています。
1789年のフランス革命は、貴族としての安楽な生活を楽しんでいた彼にも大きな影響を与えます。兄であるルイ16世はフランス革命の指導者たちと妥協的な態度をとったために、革命は急速な勢いでフランス国内に進行していきました。
革命に対するこうした兄の態度に不満を抱いていたシャルル10世ですが、フランス国内に残って積極的に革命を鎮圧するような運動に参加することはありませんでした。
革命が勃発すると彼は早い段階で家族を連れて国外へ逃亡してしまいます。転居を経てイギリスに腰を落ち着けた彼は現地から革命勢力に対して反対工作を画策しましたが、彼自身がフランスに戻って何か行動することはありませんでした。
やがてフランスでは革命がさらに進行して、兄であるルイ16世も革命勢力によって処刑されたのですが、この時も彼はあくまで沈黙を守っていました。
やがて革命勢力の間で内部抗争が勃発して、軍人であるナポレオン・ボナパルトが国内で大きな権力を持つようになりますが、シャルル10世はこのナポレオンに対しても強い反感を持ちます。彼は亡命先のイギリスからナポレオンを暗殺するための刺客を送り込んだりもしたのですが、結局この暗殺計画は失敗に終わりました。
その後ナポレオンはフランス国内だけでなく、ヨーロッパ全体を支配するようになります。皇帝に即位した彼は国内外で絶大な権力を握るのですが、そんな彼の失墜のきっかけになったのが、ロシアへの遠征です。
イギリスに対する大陸封鎖令に協力しないロシアに対して行われたこの遠征は失敗に終わり、この敗北を契機にヨーロッパ全土でナポレオンに対する反乱が起こりました。
1814年にフランスの敵国である連合軍がパリに入城すると、連合国はフランスに王政を復活させることを決定します。
この時、連合国によって王位につけられたのが彼の兄であるルイ18世です。ルイ18世は立憲君主制による新しいフランスを作ろうと画策して、1814年には新しいフランス憲法である1814年憲章を公布します。
この憲章はフランス革命とナポレオンの帝政によって成し遂げられたものに対して一定の評価をしながらも、あくまでブルボン王朝の復権ということを目的にして作られています。この憲章によりフランス国王は再び、フランス国内において不可侵の絶対的存在であるということになりました。
王政復古を進めようとしたルイ18世と弟のシャルル10世でしたが、そんな彼らの前に大きな障害が再び現れます。国外に追放されていたナポレオンがエルバ島から帰還したために、彼らは国王の地位を捨ててすぐに国外に逃亡しました。
そして第一次王政復古は短期間の間で終了します。ワーテルローの戦いの後、再びフランス国王となったルイ18世でしたが、その後行われた選挙によって選ばれた議会とは激しく対立して、議会を解散したりすることもありました。ですが基本的にルイ18世は革命勢力とも妥協的で、議員が組閣する内閣にも協力的な態度を取っていました。
こうした一連の王政復古の中でシャルル10世は、兄よりもより強固な形で王政が確立することを望んでいました。彼が求めていたのはルイ14世の時代のような絶対的な権力を持つ王政であり、議会も不要なものだと考えていました。
ですがこうした彼の考え方はフランス国内に多くの敵を作ることになり、その報復行為として彼の次男であるベリー公シャルル・フェルディナンは、彼の敵対勢力によって暗殺されてしまいます。
シャルル10世は子供のいないルイ18世の後継ぎになることがすでに決められていたのですが、1824年にルイ18世が亡くなると、彼はシャルル10世として正式にフランス国王に即位します。国王に即位する前から彼はフランス王政をより強いものにするという考えを持っていたために、国王となってからはそれを実現するために、さまざまな反動政策を実行しようとします。
フランス議会の廃止まで考えていたシャルル10世でしたが、このような王政復古の進展はフランス国民から強い反感を招きました。彼は自分に反対する勢力の言論を弾圧したり、革命前の貴族を優遇するなどさまざまな面で反動的な政策を実行しました。特に大きなフランス国民の反感を招いたのは、国民の税金で革命によって被害を受けた貴族の財産を補償するという法律でした。
シャルル10世戴冠後に他の歴代フランス国王と同じように金貨が発行されました。パリで鋳造されました。40・20・10・5フラン金貨や戴冠記念メダル、銀貨が発行されました。フラン金貨はK900(K21.6)製で、デザインは表面はシャルル10世の横顔肖像、裏面はブルボン王家の紋章が描かれた盾でした。
5フラン銀貨はフラン金貨が右向きの横顔であるのに対し、左側向きの肖像でした。戴冠記念金メダルは479gと大変質量のあるメダルも発行されました。
シャルル10世は1830年の7月に議会を解散し、選挙権を狭める勅令を発布しましたが、これがフランス国民に強い反感を与えることになります。危機感を感じた国民はパリ市内に集結して、市内にバリケードを構築して国王勢力との対決姿勢を鮮明にします。
やがてこの革命勢力はパリ市内の各所を占拠して、宮殿や庁舎も革命軍によって占領されました。
こうした動きに驚いたシャルル10世は勅令の撤回と内閣の解散を命じますが、革命の動きはとどまることはありませんでした。
革命軍はシャルル10世に変わる新しい統治者としてオルレアン公ルイ・フィリップを新しい国王に迎え、自身が処刑されることを恐れたシャルル10世はイギリスに亡命します。その後、オーストリアに移住して自分の孫を再びフランス国王にする運動を画策したりしたシャルル10世でしたが、その願いはかなわずに1835年にコレラにかかって亡くなりました。
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