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1714年~1901年までイギリスの王朝として続いたハノーヴァー朝の第三君主ジョージ3世。ジョージ3世の孫であるヴィクトリア女王や2019年8月現在英国の君主であるエリザベス2世についで座位期間が1760年から1820年と長い国王でした。多くの戦争があった混乱の治世、国王みずから倹約を心がけ、国民にも信頼されていたジョージ3世のアンティークコインや生涯についてお伝えします。
INDEX
イギリスは正式名であるグレートブリテン及びアイルランド連合王国という名が示すように、ブリテン島にあるイングランド、ウェールズ、スコットランドとアイルランド島の北部からなる連合国家ですが、この形態になって最初の王位に就いたのがジョージ3世という人物です。
当時のイギリスを統治していたのは、大陸にあった神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯でもあったハノーファー家であり、ジョージ3世はその王朝の3代目の国王にあたります。しかしながら、彼は生まれも育ちもイギリスであり、結局その生涯においてハノーファーの地を踏むことはありませんでした。
その治世は1760年から1820年までの60年にもわたっており、歴代の国王の中でも特筆すべき長さとなっています。その間、七年戦争、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争といった世界史を彩る数々の戦いが発生しており、まさに波乱万丈の生涯を生きたと言えるでしょう。以下では、このジョージ3世の生涯についてより詳しく見ることで、彼が世界史に残した足跡をたどってみることにします。
ジョージ3世は、1738年に王太子であるフレデリック・ルイスの長男としてロンドンで生まれます。父であるフレデリックは、王家であるハノーファー家の一員であり、王位継承権を有していた人物でしたが、若くして逝去してしまったために、結局王位に就くことはありませんでした。
幼少期から家庭教師に指示して当時の王族としては珍しく数学などを積極的に学びましたが、健康ではあるものの内向的な性格であったと言われています。
当時の国王は祖父であるジョージ2世でしたが、当初はフレデリックのことを良く思っていなかったためにジョージ3世もまた不遇な幼少期を送っていましたが、1751年にフレデリックが亡くなるとその評価は一変することとなり、晴れて王太子であるプリンス・オブ・ウェールズとして処遇されることになったのでした。
1759年にジョージはサラ・レノックスという名のリッチモンド公爵の妹に恋することになりますが、周囲の反対から断念せざるを得なくなります。
また、祖父であるジョージ2世は、ゾフィーという名の女性との結婚を勧めるのですが、こちらはジョージの母親が反対したことで実現されませんでした。
そうこうしているうちに、1760年にジョージ2世が急逝してしまい、それによってジョージは戴冠してジョージ3世を名乗ることになるのです。そのため、王妃探しも急ピッチで進められることになり、翌年に早くもシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツという女性と結婚することになりました。驚くべきことに、二人が初めて対面したのは、結婚式の当日のことであったとされています。
ジョージ3世は、戴冠するとすぐに議会に対し「この国で生まれ、教育を受けたわたしは、イギリスの名を誇りとする」という有名な宣誓を行います。この言葉は彼のオリジナルであり、ドイツの地で生まれた先々代や先代の国王と異なり、自らはイギリスを何よりも重視するという並々ならぬ決意を示すものとして現在に至るまで語り継がれています。
もっとも、当時のイギリスは、すでにトーリー党とホイッグ党による二大政党政治の時代となっており、国王であっても議会の意向を無視して政治を推し進めることはできないようになっていました。また、ジョージ3世が王位に就いた前後の時代はヨーロッパ大陸では七年戦争の真っただ中であり、その影響からイギリス国内でも政情不安が続いていたのです。
そのような状況のさなかに、イギリス議会は当時新大陸と呼ばれていた北米の植民地に対して印紙税を課税するという決定を行います。このことは植民地の人々の大きな反発を招くことになり、当時植民地から議会に代表者を送ることは認められていなかったことから、「代表なくして課税なし」というキャッチフレーズを唱えて大きな抗議活動を招くことになります。
それに輪をかけたのが1773年に発生したボストン茶会事件です。ボストンに停泊していた船舶に急進派の人々が侵入して積み荷である紅茶を次々に海に投下したことで知られるこの事件によってにわかに植民地内で独立の機運が高まり、1775年のレキシントン・コンコードの戦いをきっかけにして遂にアメリカ独立戦争へと至ります。
イギリスは軍を投入してこれを鎮圧しようとしますが、ジョージ・ワシントンが率いる独立派の勢いには抗しきれず1776年に独立宣言が出されることになりました。その後もジョージ3世は戦いを継続しようとしますが、さしたる戦果を挙げることはできないまま、結局イギリス軍は北米大陸から撤退することを余儀なくされるのでした。
他のイギリス国王と同じように戴冠後に1761年戴冠式記念メダル、ギニー金貨やソブリン金貨、シリング銀貨、ペンス銀貨など硬貨が発行されました。特に5ギニー金貨は試作品のみで日本のコインディラーは取扱いがあるかどうかというほど世界規模で大変希少性がある金貨のようです。ギニー金貨、半ギニー金貨が多く流通しました。
銀貨は他にもクラウン銀貨(=5シリング相当)があり、ジョージ3世が金本位制を採用した1816年以降発行されたコインは、新ソブリン金貨やクラウン銀貨の裏面デザインがセントジョージと龍(このデザインはジョージ3世から)が有名です。クラウンパターン銀貨であの英国王立造幣局の彫刻師として世界に名高いウィリアム・ワイオンが手掛けたコインが存在するそうです。表面は月桂冠をつけたジョージ3世、裏面はスリーグレイシス(3人の連合軍をイメージした女神)の銀貨も存在します。
重要な植民地であるアメリカを失ったジョージ3世は、国内の政争に明け暮れることになります。そのような中で彼が厚い信頼を寄せたのが、小ピットと呼ばれるウィリアム・ピットでした。ジョージ3世は、ピットが首相を務めていた時期は、貴族院の意見を取りまとめるなど、その政策遂行を強力にバックアップしており、その敬虔な人柄と相まって国民の間でもジョージ3世への人気は急速に高まっていきました。
しかしながら、その後ジョージ3世は体調を損ない、一時錯乱症状を示すなど不安定な精神状態が続きました。そのため、ピットが率いる議会でも摂政を指名することを真剣に検討し始めますが、やがて体調が回復したことから実現はしませんでした。
1789年には長らくブルボン王朝による統治が続いていたフランスで革命が勃発し、国王がギロチンで処刑されて王家が廃絶されるという事態となります。その後に台頭したナポレオンによってヨーロッパ大陸の大部分は平定されることになりますが、そこに敢然と立ち向かったのがジョージ3世とピットが率いるイギリスだったのです。
当初は劣勢を強いられたイギリスですが、有名なトラファルガーの戦いにおいてネルソン提督率いる海軍が勝利を収めたことがきっかけとなって、ナポレオンを失脚に追いやることに成功します。
ナポレオン戦争に勝利した後のジョージ3世は収まっていた病気が再発したため、再び闘病生活を送ることを余儀なくされます。
一時は回復の兆しがみられたものの、体調は悪化を続け、リウマチや白内障、ついには認知症まで患ったことから、1811年頃には摂政を置いて実質的な王権を王太子に譲ることになるのでした。その後は、ほとんど幽閉状態の生活を送り、1820年に波乱に満ちた生涯を閉じました。
イギリス史、ジョージ3世の半生とコインについてお話しましたが如何でしたでしょうか?ジョージ3世の金貨はアンティークコインの中でも大変希少性のあるコインがございます。ギニー金貨やクラウン銀貨、プレミア価格でお買取りいたします。またジョージ3世以外の英国アンティーク金貨やモダンコインもお取り扱いございます。
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