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古金銀の種類一覧!一分金・一分銀など種類別に価値を解説!

「古金銀」とは江戸中期、または明治時代に通用した金貨や銀貨のことを指します。当時の庶民は穴銭を主に使用していましたが、古金銀の登場にて、現代の「お札」にあたる概念が生まれました。

古金銀が鋳造されたことで、庶民にまで貨幣経済が急速に浸透していったとも言われています。

古銭のなかでも多くの種類が確認されている、その特徴や価値を種類別に見ていきましょう。

古金銀とは何か?歴史や当時の価値は?

古金銀とは前述の通り、江戸時代中期または明治時代に通用した金貨や銀貨のことです。

しかし明治時代に日本の貨幣制度は大きく変わったため、それ以前に発行された古金銀は現在非常に価値のある貨幣となります。

とくに貨幣制度のために数度の改鋳を繰り返した江戸時代の古金銀は、同じ「一分金」や「一分銀」でも少しずつ作りが異なっています。名前をよく聞く一両小判もまた、実は古金銀の一種です。

最上級の単位の金貨を一両小判とし、二分金、一分金(一分銀)、一朱金(一朱銀)、一文銭や四文銭と価値が分かれていきます。

これは現代の貨幣制度に近いもので、古金銀の鋳造前の穴銭しかない時代からすると、非常に画期的な貨幣制度であったことがうかがえます。

古金銀の歴史と特徴

現存する日本の最古の金貨は760年の「開基勝宝」、銀貨は7世紀の「無文銀銭」です。

しかし、これらは穴銭と呼ばれるものであり、ここで紹介する一分金や一分銀と呼ばれるものとは種類の異なる貨幣です。

古金銀は江戸時代に天下統一を果たした徳川家康が、貨幣制度の統一を図るために鋳造した金貨や銀貨のことを指します。

そして、全国で使用できる共通貨幣を作るために、金貨を鋳造する「金座」や銀貨を鋳造する「銀座」を各地へ建造しました。

江戸時代中期以前までは穴銭を主に使用していましたが、それより価値の高い一分金や一分銀を造幣することにより、穴銭を所持する量を減らすことを目的としました。

計画通り庶民への普及が成功したことで、多くの一分金や一分銀が流通することとなりました。

それぞれの細かな特徴は後述しますが、主に長方形の短冊形をしており、時代によって時代印など刻印されている模様が異なる点が、古金銀を見分けるポイントです。

また、金貨だからと言って一分金の中に金が100%配合されているわけではなく、時代や古金銀の種類により、金と銀の含有量の比率が異なります。

低い価値の古金銀であれば、銀ではなく鉄が含まれている場合もあります。

しかし、金属の含有率にもまた、海外貿易などの歴史的背景があるのです。詳しい含有率や歴史は、古金銀の種類の解説にて説明します。

古金銀の発行された経緯

日本最初の貨幣制度は、7世紀後半に導入された穴銭である「和同開珎」と言われています。その後、富本銭や宝永銭などの貨幣が発行されましたが、それらの素材は主に銅や鉛でした。

さらに時が進み、中国との貿易にて流入した宋銭などの貨幣を参考に、日本でも各地で独自の貨幣が鋳造されるようになりました。

金貨や銀貨のような材質が金や銀でできた小判などの多くは、江戸時代初期に作られるようになりました。

これは江戸幕府を開いた徳川家康の貨幣統一制度により、日本全国で使用できる金貨や銀貨の鋳造が始まったからです。

しかし、後に幕府の財政難に対する政策で金貨や銀貨の質を落としつつ貨幣の数量を増やしたため、貨幣の改鋳が繰り返されるようになりました。

改鋳とはすでに市場に流通している貨幣を回収し、改めて作り直し、また市場に流通させる過程のことです。

明治以降は現在の通貨単位である「円」が制定され、金1.5gに対し1円の条例が制定されました。

江戸時代の古金銀の形状とは異なり、現代の貨幣に近い形をしています。10円金貨や1円銀貨などがあります。そのため主な古金銀は江戸時代のものが多いことが特徴です。

当時の古金銀の価値

明治時代に現代の円の制度が導入されたと記述しましたが、それ以前の古金銀の価値は今と異なります。

江戸時代は4進法を使用していたため、一朱金4枚で一分金1枚、一朱銀4枚で一分銀1枚の計算方法を用いていました。

そのため一両小判1枚にするためには……、

二分金であれば2枚

一分金または一分銀であればそれぞれ2枚ずつなど計4枚、

二朱金であれば8枚、

一朱金または一朱銀であれば4枚で一分金または一分銀1枚なので、計16枚。

このような計算になります。

さらに細分化すると、一朱金や一朱銀の下に一文銭や四文銭があります。

一文銭や四文銭は穴銭であるため、古金銀ではないのですが、一文銭だけで一両小判一枚にするには4000枚も集めなくてはならない計算になります。

穴銭だけの貨幣制度がいかに大変なものだったか、江戸時代の貨幣の価値を見ていくことで、古金銀を用いた貨幣制度の必要性が見えてきます。

一分金や一朱金をお札代わりにするという徳川家康が築いた貨幣制度は、現代の貨幣制度の元となることでもあり、穴銭だけの取引であった流通に革命を起こしたとも言えるでしょう。

古金銀の種類一覧【一分判金(一分金)】

慶長一分判金

1601年(慶長6年)~1695年(元禄8年)に発行された金貨です。

一分判とはその名の通り金一分(約3.75g)の重さを持つ金貨を指します。

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した翌年で、貨幣制度を始めた頃のものとなります。江戸時代最初の一分判金であることもあり、収集家からも人気の高い古金銀です。

江戸時代において基本的な通貨としてだけでなく、海外との貿易においても使用されていました。表面には扇状の枠、その中と真下に二つの桐の花が彫られています。

一分判とわかるように、2つの桐の花の間に「一分」と彫られていることも特徴のひとつです。この扇の周りにある丸い模様の数により、希少度が異なります。

元禄一分判金

元禄一分判は二番目に彫られた古金銀です。

1695年(元禄8年)~1710年(宝永7年)に発行されました。慶長から比べると金の品位が劣り、現存するもので状態の良いものが少ない金貨です。

金の含有量低下の背景には、元禄時代の海外との貿易にて、大量の金や銀が貨幣として流出してしまった問題があります。

貨幣の品位を落として財政の立て直しを図ろうとして幕府の貨幣政策のために、同じ一分判でもあえて慶長のものより金の比率を低くして作られました。

また鋳造が始まったばかりといった理由もあり、裏面と表面で刻印が逆になっているエラー銭や、「元」の字の跳ねの部分に長短の違いが表れているものなどが存在します。

現存数が極めて少ないこともあり、これらの特徴をもつ古金銀はより希少価値があるものとされています。

宝永一分判金

宝永一分判は1710年(宝永7年)~1714年(正徳4年)に発行されました。

これまでに発行された慶長や元禄一分判金に比べると、大きさが小さいことが特徴です。慶長一分判は縦の長さが20mmですが、宝永一分判はその半分以下の8.8mmです。

しかし、小さいながらも金の品位は慶長とほぼ同じ程度で高いので、金の含量に見合った強い輝きが見られます。

扇状の枠や藤の花の刻印はそれまでと同じデザインですが、裏面に時代を示す「乾」の字が刻まれているので、ほかの一分判と見分けることが可能です。

また、表面と裏面が逆さに打たれている「逆打ち」と呼ばれるものも存在します。逆打ちは稀にしか見られないものであるため、同じ宝永一分判でも価値に違いが出てきます。

正徳一分判金

正徳一分判は1714年(正徳4年)に発行された金貨です。

これまでの一分判同様に、裏面に違いがあり、見分けることができます。しかし正徳一分判の刻印は慶長一分判に非常に似ているので、注意が必要です。

正徳一分判発行の経緯は、朝鮮への貿易で宝永銀が使用できない事案に対し、朱子学者の新井白石が日本が侮辱されたと受け止め、品位の改善を要求したことにはじまります。

しかしながら、流通後に慶長一分判よりわずかに金の品位が劣ることが判明したため、わずか4ヵ月で改鋳することとなりました。そのため鋳造数自体が非常に少ないものと言えます。

享保一分判金

享保一分判は1716年(享保元年)~1736年(元文元年)に発行されていた金貨です。

8代将軍徳川吉宗の時代に作られました。また、慶長一分判と同比率の金の含有量へと戻すための、貨幣政策が続いていたさなかに鋳造されたので、比較的金の含有率が高いことも特徴のひとつです。

享保一分判は正徳一分判より品位を高くするために作られましたが、当時は金の採掘量が減少していたため、金の品位が高いながらも流通枚数は少ないです。

年号を示す「文」の文字が刻印されており、作りは正徳一分判と非常に似ています。

しかし、裏面に刻印された「光」と「次」の字により見分けることが可能です。

正徳一分判は「光」の字から一筆書きのようにして、「次」の字へ繋がっていますが、享保一分判はそれぞれの字を書き分けるように文字が離れている点が特徴です。

元文一分判金

元文一分判は1736年(元文元年)~1818年(文政元年)に発行された金貨です。

当時の財政を立て直そうと改鋳目的のために作られた金貨なので、大幅に品位が下がっています。

正徳や享保時代のものと比べ、一枚当たりの金の含有量が半分以下の作りとなっており、見た目も金貨特有の輝きではなく、くすんだように見えます。

しかし、流通を増やす目的のために、従来の金貨との取引の際は、元文一分判を多めに渡すといった政策が行われていたため、発行枚数が小判と合わせて17,435,711両分鋳造されており、一分判のなかでも比較的多い枚数となります。

そのため現存数が多いことも特徴です。年代印として「文」の文字が打たれています。

文政一分判金

文政一分判は1805年(文政2年)~1814年(文政11年)に発行された金貨です。

この時代は文政の改革により幕末へ向けて貨幣数量が爆発的に増えていきました。貨幣流通量が40%も増えた歴史を知ると、広く市民に広がっていたことが分かります。

時代印として「文」の文字が打たれていますが、前の時代に鋳造した元文一分判と区別するために、文政一分判は草書体の「文」になりました。

そのため「草文一分判」とも呼ばれています。また前の時代の元文一分判よりさらに品位が低いので、幕府は改鋳にあたり品位の差を利用して、利益を得たと言われています。

天保一分判金

天保一分判は1837年(天保8年)~1858年(安政5年)に発行された金貨です。

この時代から鋳造にローラーを使用するようになったため、1枚ごとの完成度が高い状態で保たれるようになりました。

現代の貨幣のように仕上がりが均一で、これまでの手打ちの鋳造よりも美しい出来のものを大量に作ることができるようになりました。

表の扇状の枠と桐紋も彫りが明確で、手打ちのものよりもはっきりと見られます。

しかしながら、品位は低いとされる前の時代の文政一分判とほぼ変わりません。時代印の「保」が桐紋の右上に刻まれていることが特徴です。

安政一分判金

安政一分判は1859年(安政6年)に発行された金貨です。

この時代は幕末の開港の際、金銀の交換比率が外国と異なるため、金や銀の含有率が多い日本の貨幣は損が大きいものでした。

そして、そのまま貿易を続けたことにより、日本の金の多くが海外へと持ち出されてしまいました。

そこで、日本の金をなるべく外国に流出させないようにと、1枚あたりの金の含有量を少なくするための改鋳がされました。安政一分判はそういった貨幣政策の元、生まれた金貨でした。

しかし、流出した枚数が膨大にも関わらず、現存数は極めて少ない金貨です。そのため発行枚数ではない現存数での希少価値が注目されています。

表面の右上に時代を示す「正」の字が打たれています。また一分の「分」の字が一部跳ねて書かれているものと、止で書かれているものの2種が存在しています。

これらはハネ分、トメ分と呼ばれ、それぞれで価値が異なります。

万延一分判金

万延一分判は1860年(万延元年)~1867年(慶応3年)に発行された金貨です。

金の含有率は安政よりもわずかに高いですが、0.82gと非常に軽い作りの金貨なので金の品位自体は低いです。

これは外国との金銀の価値の比率を合わせるために、品位を上げずに大きさを小さくする政策がとられたからです。

そのため状態が良いものが少ないと言われています。しかし、これまで10万両以上あった鋳造数が万延一分判では4万両にまで減少しています。

日本の金や銀の流出を防ぐために、貨幣の枚数を操作していたことが分かります。

また、安政一分判と同じように、「分」の文字が跳ねているものと止めになっているものの2種類があります。

なお、安政一分判同様、時代印として「正」の字が打たれていますが、万延一分判は裏面に「正」の文字が記された違いがあります。

古金銀の種類一覧【二分判金(二分金)】

文政二分判金(真文二分判金)

真文二分判は1818年(文政元年)~1828年(文政11年)に鋳造された二分金です。

文政時代に鋳造された金貨で文政二分金とも言われます。文政時代に作られた二分判は2種類ありますが、文政元年から作られたこちらの金貨は文二分判と分類されています。

文政二分金は両方裏面に「文」の字が刻まれていますが、真文二分判は字体が楷書体であるため同年代期のものと判別可能です。

2枚で小判1枚分の量目ですが金の品位が低いため、なるべく金を流出しないように考えた幕府の財政補助のための貨幣と言われています。

しかし、流通した期間はわずか4年程度となり、品位と関係なく希少性がある金貨でもあります。

文政二分判金(草文二分判金)

草文二分判は1828年(文政11年)~1832年(天保3年)に発行された金貨です。

裏に打たれた「文」という字が、草書体であるためこのような名前がつけられました。

前述した真文二分判の「文」の文字と比べると、こちらの方が崩れているように書かれているので、同じ時代であっても比較的分かりやすいです。

重さはどちらも同程度ですが、草文二分判の方が含まれている金の量の方が低いことも特徴になります。

安政二分判金

安政二分判は1856年(安政3年)~1860年(万延元年)に発行された金貨です。

鋳造年数が4年と非常に短いので流通が少なく、その理由から希少価値が高い金貨となります。

この金貨が鋳造された時代は、日本の金が割安でした。日本国内で金1gは銀5gの価値でしたが、外国は金1gに対し銀15gでした。

そのため、万延の改鋳で純金量を3分の1に減らし、海外に金の流出を抑えようとした動きが見られました。安政二分判も本格的な改鋳前ということもあり、金の品位が約20%しかありません。

前時代の真文二分判は金が約56%、草文二分判は約49%なので、急激に半分以下に品位が下がっていることが分かります。また時代印がないので、重さなどで違いを見分ける必要があります。

万延二分判金

万延二分判は1860年(万延元年)~明治初期までに発行された金貨です。

改鋳の最中に鋳造されたこともあり、万延二分判は江戸時代に作られた古金銀のなかで、もっとも低い品位の古金銀となりました。

江戸から明治にかけて作られた金貨ですが時代印がありません。すぐあとに作られた明治二分判と作りが似ていますが、二分の「分」の字の跳ねか止めの違いや、表面の桐の花のデザインの違いにより見分けることができます。

時代をまたいだことにより、「安政型」と「明治型」と呼ばれる2種類に分類されますが、安政型の方が流通が少ないため希少と言われています。

明治二分判金(貨幣司二分判金)

貨幣司二分判は1868年(明治元年)に発行された金貨です。

貨幣司とは大政奉還によって生まれた貨幣の鋳造機関を指します。明治新政府は江戸時代の金や銀貨を通用させる一方で、両単位を持つ紙幣や貨幣を発行しました。

貨幣二分判は鋳造していた金座を明治新政府が買収し、貨幣局が開くまでの繋ぎで鋳造された金貨です。その期間はわずか10カ月程度でした。

重さも3gしかなく、短期間の流通と低い品位は、激しい時代の移り変わりが感じ取れます。

またこの時代は財政難から、各地で偽の金貨が鋳造されていたので、流通枚数は多いですが本物か見極める必要があります。

古金銀の種類一覧【一分銀】

天保一分銀(古一分銀)

天保一分銀は1837年(天保8年)~1854年(安政元年)に作られた銀貨です。

天保時代から明治時代にかけてこの銀貨を含め3種類の銀貨が鋳造されました。

そのなかでもっとも古いものが天保一分銀なので、「古一分銀」とも言われています。

一分銀は一分金と同じ価値を持つものとして扱われていたので、一分金同様に一分銀4枚で一両小判と同じ価値とされていました。

当時は金貨よりも銀貨の方が多く鋳造されていたため、流通数が多いことも特徴のひとつです。

額縁には両面合わせて20個の桜が刻印されており、表面の下辺5個のうちの1個と、裏面の9個のうちのひとつが逆さの桜の印である場合、天保一分銀と判断できます。

また、天保一分銀の一部には「庄」と刻印されたものがあります。

これは「庄内一分銀」と呼ばれ、鋳造年数が1868年の5~6月にかけてのみ作られたため、天保一分銀のなかでも非常に希少性があります。

鋳造当初は純銀が多く使用されていましたが、時代を重ねるごとに少しずつ銀の含有量が減っています。

安政一分銀(新一分銀)

安政一分銀は1859年(安政6年)~1868年(明治元年)に発行された銀貨です。

日米和親条約の開港の際に、天保一分銀のままでは外国との取引で銀の含有量の違いにより、日本が損をしてしまうとのことで作られたものが安政一分銀でした

そのため天保一分銀よりも少し銀位が低い作りとなっています。天保一分銀が古一分銀と呼ばれる一方で、後の時代に流通した安政一分銀は「新一分銀」と呼ばれることもあります。

裏面の「是」の字の八画目と九画目がバツ印のように交差しないことも、安政一分銀の特徴でもあります。

明治一分銀(貨幣司一分銀)

貨幣司一分銀は1868年(明治元年)~1869年(明治二年)に発行された銀貨です。

鋳造期間が明治に至ったことで、「明治一分銀」とも呼ばれています。ほかの2種と比べてもっとも銀の含有率が低く、亜鉛が使われているので、「亜鉛差一分銀」と呼ばれることもあります。

明治元年に明治政府は銀座を買収し、そこで鋳造されたものが貨幣司一分銀です。裏面の「常」の字の一画から三画目が川の字に似ている点が、ほかの一分銀との差分とされています。

しかし貨幣司一分銀に共通した特徴ではないと判明したため、見分けるための特徴とは言えません。

古金銀の種類一覧【一朱・二朱】

文政一朱金

文政一朱金は1824年(文政7年)~1832年(天保3年)に発行された金貨です

一朱金は4枚で一分金1枚の価値とされていた貨幣です。一朱金16枚で一両小判1枚の価値でした。

一朱金として江戸時代に発行されたものは、文政一朱金のみで、文政以降に新しい一朱金が発行されることはありませんでした。

銀の含有率が高く、金の含有率が非常に低いため、金貨としての質は悪く、損傷するとすぐに銀色になり、当時は使いづらい金貨として扱われていました。

そのような理由からあまり流通されない金貨でした。

表面は額面を表す「一朱」が刻印されています。現存数の少なさから希少性があるとされていますが、品質の低さからくる劣化や損傷がほかの金貨に比べると激しいです。

文政南鐐一朱銀

文政南鐐一朱銀は1829年(文政12年)~1837年(天保8年)にかけて発行された銀貨です。

一朱銀は4枚で一分銀1枚の価値を持っていた貨幣です。16枚で一両小判1枚分の価値になります。

南鐐とは上銀のことを指し、それを用いて作られた長方形の銀貨であることが名前の由来となっています。そのため銀の含有率が高く、発行当時は良質な銀貨であったことがうかがえます。

江戸時代に鋳造された3種類の一朱銀のなかで、文政南鐐一朱銀がもっとも銀の含有率が高いです。

裏面にある「銀座常是」の文字と、その上に分銅紋が刻印されていることが特徴です。

嘉永一朱銀

嘉永一朱銀は1853年(嘉永6年)~1865年(慶応元年)に発行された貨幣です。

表面には額面を表す一朱、裏面には銀座常是の文字が刻印されています。こちらは文政南鐐一朱銀の銅紋が刻印されている部分に、「定」の字が彫られているので、違いを見分けることができます。

発行枚数が非常に多く、江戸時代に広く流通していた銀貨でもあります。しかし文字の字体により種類が異なります。

例えば一朱銀の「朱」「銀」の字の跳ねの有無や、銀座常是の「銀」「座」「是」の文字の跳ねなどにより種類分けがされています。

それらの組み合わせにて約60種類に分類され、同じ銀貨のなかで細かいながらもいくつかの差分が存在しています。

さらに細かな差分により、希少性も価値も異なりますので、しっかりと違いを見分ける必要があります。

明治一朱銀(貨幣司一朱銀)

貨幣司一朱銀は1868年(明治元年)~1869年(明治2年)に発行された銀貨です。

貨幣司は現在でいうところの造幣局に付属する機関を指す言葉なので、明治一朱銀や川常一朱銀などの呼び方の方が一般的です。

名前の由来である「川」は、裏面に刻印されている銀座常是の「常」の字の上の3点が、川の字のように跳ねや払いがなくまっすぐであることからきています。

文政南鐐一朱銀や嘉永一朱銀の2つに比べ、貨幣司一朱銀は少し質を落とした銀を使用しており、材質は洋銀に似ています。

鋳造された年数が短いことから、銀の質はあまり良くないものですが、枚数による希少性があるとされている銀貨です。

元禄二朱判

元禄二朱判は1697年(元禄10年)~1710年(宝永7年)に発行された金貨です。

二朱金は2枚で一分金1枚の価値があるとされていた貨幣です。二朱判8枚で一両小判1枚分の価値になります。

江戸時代に鋳造された二朱判金はこれを含めて3種類あります。

長方形をしており、表面には二朱の文字の上に、扇枠の銅紋があることが特徴です。二分金などに比べると同じ金貨でも重さが軽いです。

また、裏面の上部に時代を示す「元」の文字が刻印されています。当時は一朱金よりも使い勝手が良いとされ、広く流通していましたが、現存数は少ないです。

天保二朱判

天保二朱判は1832年(天保3年)~1858年(安政5年)に発行された金貨です。

二朱判金と呼ばれ、見た目も金貨と分かる作りですが、含まれている金は全体の30%となり、銀よりも少ないです。

幕府が二朱判を大量に生産し、すでに流通している高品質の金貨を回収して政策を立て直すために、あえて低い品質の貨幣を作ったとも言われています。

現在では、逆打ちなどにより価値が高騰することもありますが、基本的には多く取り扱われていることと、低品質により価値が低いことが多いです。

なお、逆打ちとは表と裏で刻印の向きが異なり、上下逆などの誤った作り方がされた貨幣を指します。

万延二朱判

万延二朱判は1860年(万延元年)~1869年(明治2年)に発行された金貨です。

この金貨は江戸時代最後の二朱金です。

元禄二朱判や天保二朱判に比べ一回りほど大きさが小さく軽いので、使い勝手が良い反面、紛失が多いなどの理由により鋳造数が少ないです。

しかし、金貨とは名ばかりで、金23:銀77と金の含有量がわずかとなっています。

時代印がなく、見た目の特徴もほかの二朱判に比べ分かりやすい目印のようなものがないですが、小さく軽いため、特定することが容易です。

南鐐二朱銀

南鐐二朱銀は1772年(安永元年)に発行された銀貨です。

名前に入っている「鐐」の文字は上質な銀のことを指し、「南鐐」は純度が高いことを意味します。

南鐐二朱銀はそれぞれの作られた時代に沿って、古南鐐二朱銀と新南鐐二朱銀の2つに分けられています。

古南鐐二朱銀は「明和南鐐二朱銀」と「寛政南鐐二朱銀」の2つの総称です。新南鐐二朱銀はその後に作られた「文政南鐐二朱銀」のことを指します。

古南鐐二朱銀に比べ、新南鐐二朱銀の方が軽いですが、鐐の文字が示す通り、どちらも銀の純度が高い銀貨となっています。

古南鐐二朱銀と新南鐐二朱銀ともに表面には「以南鐐八片換小判一両」と刻印されています。

これは「南鐐二朱銀8枚で一両小判に交換できる」ことを意味し、江戸幕府が南鐐二朱銀の両替が優位であることを広める意図も含まれています。

南鐐二朱銀の発行により、江戸時代の貨幣制度が現代に近いものへと変化していきました。そのため、それぞれの発行数が比較的多いことや、広く流通したことで傷がついたものが多いことなどが原因で、5,000円前後で買取されています。

しかし、両面の文字の周りにある丸い印がより多く残っているものは、付加価値とみなされ倍の1万円以上の値段が付く場合もあります。

南鐐二朱銀は偽物も出回っているため、表面の刻印が同じで重さが違うだけの古南鐐二朱銀と新南鐐二朱銀は、偽物と本物を見分けることが非常に難しいと言われています。

安政二朱銀

安政二朱銀は1859年(安政6年)に発行された銀貨です。

安政二朱銀は、貿易において日本の金銀の流出を防ぐ目的を兼ねた貿易用の銀貨として鋳造されました。そのため「貿易二朱」とも呼ばれます

二朱銀は2枚で一分銀1枚分の価値とされていました。8枚で一両の価値となる銀貨です。

安政二朱銀は貿易港では使用されていましたが、一般には一分銀が流通していたため、あまり流通しませんでした。

当時流通していた一分銀よりも大型でありながら品位が低く扱いづらい点も、流通が少ない理由のひとつです。

しかし、現代では流通が少ないことが希少性という価値が付属し、わずか4ヵ月の鋳造数と合わさり、現存数が少ないことから一朱銀よりも高値で取引されるケースもあります。

古金銀の現在の価値は?

同じ古金銀でもわずかな違いで大きな価値の差が出てきます。コレクターはそのような違いに、古金銀の歴史や文化を見出して価値をつけています。

おそらく古金銀の魅力はここでお伝えした以上に、まだまだたくさんあることでしょう。

自分なりの古金銀の魅力を見つけてみることも、新たな楽しみ方になるかもしれません。また、古金銀はエラー銭などでさらに価値が高くなります。

鋳造数が少ないものや、現存数が少ないものであれば、より高価な価値が付与されます。

同じ古金銀でも1,000円~数万円の差が出ることもあるのです。希少なものであれば数十万円の価値がつくこともあります。

当時の歴史も知ることのできる古金銀は、古銭のコレクターだけでなく、歴史が好きな人物や研究者にも重宝されています。多くの人からの需要の数だけ、古金銀の価値もあると言えます。

しかし、なかには同じ重さや見た目の偽物もあります。偽物はエラー銭とは異なる扱いですので、非常に価値は低いです。

普段から古銭に触れていないのであれば、劣化などの条件も重なり、偽物と本物の違いを見分けることは難しいです。

それらを見分けるには、やはり専門家の知識と目を信じる方法が最適でしょう。

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